遠い崖のなかまたち

みみこさまからいただいた中井です♪

北から来た男は北へ帰る。

2008-12-09-Tue
井上石見さん(長秋)については、今までにもふれたことがあります。慶応4年七夕の宴会記事が主かもしれませんが。(→コチラの記事とか…)
函館市が『函館市史』のデジタル版を公開してくれていて、その頃の事情がもうちょっとわかるのでメモしておきます。


新政府は、箱館奉行所を引き継いで箱館裁判所とし、すぐに箱館府へと改めます。府知事はまだ20代半ばの清水谷公考さん。井上石見さんは府判事。判事の中では最上席みたいですね。

箱館府の面々が頭を痛めたのは、「お金がない!」ということ。

そもそも、蝦夷地への赴任費用からして、戦費のやりくりにぴいぴい言っている新政府には捻出しがたく、蝦夷地の産物を取り扱っている紀伊や近江の商人の献金によってようやく調達できたそうです。
そして箱館に到着してみると、頼みの箱館奉行所の金穀は江戸に回送されてしまっていて、奉行所の蔵はほとんどからっぽ。「だって、江戸が心配だったんだもん。」と幕府最後の箱館奉行杉浦さん。立派なご処置なんでしょうけれど、清水谷さんたちにしてみたら、恨み言の一つでもいいたかったことでしょう。
さらに秋田にいる奥羽鎮撫副総督の沢さんから軍資金と弾薬等の援助を求められ、なんとか物資を調達し軍資金3000両については沢さんたちの給料を割いて送ったそうです。
また箱館奉行所は慶応4年3月にプロシアの商船ロワ号を購入する契約をして内金を支払っていました。そのロワ号が5月30日に箱館に回航してきて、箱館府に船の引渡と引き替えに残金の支払いを求めます。お金はないけれど、船はどうしても必要なのだから、なんとかしないといけないわけです。
そこで、石見さんが解決策を求めて横浜へ向かったのでした。石見さんと通弁の稲本小四郎さんが乗るイギリス船は6月4日に出帆。
石見さんは、本来ならば京都の会計官へ出頭して箱館府の窮状を訴え資金の下付を請うところなんでしょうが、埒があかないとみたのか、先ずは横浜と東京で活動しました。
当時神奈川裁判所の総督だった東久世さんの日記慶応4年6月8日条には、「井上石見函館ヨリ来ル、江戸ヘ出ル」とみえます。

北大の北方資料データベースで、たくさんの史料がオンライン公開されています。写本でですが、この頃石見さんが清水谷さんに宛てた書簡が読めますので、引用しておきます。(毎度のおことわりですが、ここの管理人はいたっていいかげんであてになりません。興味を持たれた方は北方資料DBをご覧ください。なお、この書簡にもとづいたデジタル版『函館市史』の記述はコチラにありますので、お勉強の途中にたまたま当ブログに迷い込んだ方はどうぞそちらへ。)


当月六日御書難有拝見仕候、暑中益御機嫌能被遊御座恐悦至極奉存候、随而私にも今以横浜滞在仕、今日漸船請取方相済申し候故、明早天江戸え出府仕、会所請取方等取究、夫より直様上京之含ニ御座候、扨於当所金策之尊命拝承仕候得共、至而六ヶ敷、小松も参り合せ候故、幸之事と存シ、早速相談仕候処、当今切迫之金策且外国人え償金断等引請之分山之如ク申立、術計尽果候様子ニ而、兎角思慮ニも不渡相断候次第、何とも致方無御座候、神奈川裁判所も同様ニ而大阪より参り候為替金間違ニ而、外国ニ懸而之金難差置さらへ切て在丈ケ差出シ候後故、当今難相調旨相断、其内長谷部ニは孛漏生人ニ対シ度々手強き談判も有之候得共、いつれ今一万とるなくてハ船相渡シ不申心配仕候処、英公使小松え内話之趣、私直ニ致相談候ハヽ、バンク之金出来候様可致旨承り、談判仕、別紙証書之通り、不得止二万とる借り入、一万とるハ生産之財本として差上申し候、愚存是ニ而石炭堀一途ニ被命精々相働、函府え運ひ出シ、当難相凌外有之間敷奉存候、亦米五百俵え纔小松へ相談仕相廻シ申候、尚委細長谷部言上可仕候、当人も此節殊更尽力仕候、先者奉復且暑中御安否奉伺度如斯御座候  恐惶謹言
  六月廿五日            井上石見
清水谷侍従様 尊下




清水谷さんは6月6日付で石見さんに宛てて手紙を書いたのですか。石見さんが箱館を出発した直後、6月7日に箱館府の長谷部さんと南川さんがロワ号に乗り組んで後を追っています。清水谷さんの手紙は、長谷部さんたちが運んだんでしょうかね。手紙を受け取ってから2週間ほど経過した6月25日になって、ようやく石見さんは仕事の目途が立って清水谷さんにお返事を書くことができたのですね。

以下、電波ダイジェスト。

私はまだ横浜に滞在しています。今日(6月25日)ようやくロワ号を受け取りました。明朝江戸へ行きます。箱館奉行付属の産物会所(新大橋植物場内)の引継などについて取り決めをしてから、京都へ行く予定です。
横浜で金策を立てよというご命令を承っておりますが、たいへん難しいことです。小松さんが京都から横浜に来たところだったので、これ幸いとさっそく相談しました。しかし目下切迫している金策のことや外国人への償金支払いを幕府から引き継いだことなど山のように並べ立てられ、万策尽き果てた様子で不本意ながらと断られました。しかたのないことです。神奈川裁判所も同様で、大坂から送られた為替金が間違いで(ちょっと意味がとれません〜)ありったけのお金を差し出したところなので、今は調達ができないと断られました。
長谷部さんがプロイセン人と強硬に談判を繰り返し、残金全額の支払いという条件はゆるめられたものの、1万ドルがないとロワ号を引き渡してもらえないので心配していました。イギリス公使のパークスさんから小松さんに内々の話がありまして、私が直接相談したところ、イギリスの銀行からお金を借りられるということだったので、談判して別紙の証書の通りやむを得ず2万ドル借り入れました。残りの1万ドルは箱館府生産方の経営資金に回します。愚考しますに、その資金で石炭の採掘をして箱館へ運び、当面の難局を乗り切るしかないと思います。
また米500俵は小松さんに相談して廻します。(どういうことでしょう。横浜から500俵のお米を箱館に回送するってことでしょうか?)
詳しくは、長谷部さんが帰って報告します。長谷部さんは今回たいへん尽力されました。
先ずは、お返事と暑中お見舞いまで。



う、あ、あ、……。たいへんですね。
石見さんにしてみれば、小松さんの来浜は渡りに船と見えたことでしょう。「箱館はいまたいへんなんです。なんとかしてもらえませんか。」とすがりつきます。ところが政府がいまどれだけ金の支払いに追いまくられているかを滔々とまくしたてられてしまったんですか……。「術計尽果候様子」というのがなんだか瑛太くんの途方に暮れた小松さんに似合いそ(←殴)
一方で、神奈川裁判所は税関収入があるからなんとかしてもらえるかもと相談に行ったんですか。つまり寺島さんを頼ってみたということですね。そしたら「うちもいまちょうどあり金はたいたところで無一文同然……」という情けないお返事をもらっちゃったんですか。

お芋ちゃんたちが異口同音で「お金がないんです〜〜〜。」

そして最後にすがった先が、パークスさん……。銀行からの融資を仲介してくれました。(オリエンタルバンクかな?)
イギリスにしてみれば、北地への投資みたいなものだったのでしょうか。それなりの野心があったんじゃないかしらん。


イギリスの銀行から借金して引き取ったロワ号は、再び箱館に回航します。箱館府の稲本さん、長谷部さん、南川さんはロワ号に乗って帰ります。箱館着が7月10日ですかね。

石見さんは、清水谷さん宛の手紙によれば、京都に行く予定だったようです。
甲東さんの日記にでてくるのですが、7月7日に送別会をやってもらっています。
しかし、石見さんは、京都には行きませんでした。代理として京都に行ったのが、三沢揆一郎さん。三沢さんは小松さんと一緒に上洛します。小松さんたちの横浜出港は7月28日。(八田のおじいちゃんも一緒です♪)

石見さんは、7月22日イギリス船ラットラー号に乗って横浜を出港。7月26日に箱館着。この船旅は、イギリス公使館のサトウさんとアダムズさんの視察旅行に同伴するものでした。
なんなんでしょうね。石見さんは、イギリス公使館チームとすっかりなかよしになったようにみえます。京都の仕事は三沢さんに任せて、自分はイギリス公使館チームと行動をともにすることにしたようですが。
そんでもって、このユニット結成に一役買っているのが、中井……。まいどのことながら面白いところにいる男です。

しかし蝦夷地で、サトウさんとアダムズさんが乗ったラットラー号と石見さんの乗ったロワ号(「遠い崖」ではローヴァー号と表記)は、東西に分かれて探索にでるのですがそれぞれ遭難するという不幸に見舞われます。ラットラー号の乗組員は助かりますが、ロワ号は消息不明。明暗分かれます。

で、結局、石見さんが頭のなかに描いていた絵がどんなものだったかわからないわけです。サトウさんが、もうちょっと書いておいてくれたらよかったのに。(笑)







えー、蛇足。
薩摩藩の蝦夷地エキスパートには石見さんの他に肝付兼武という人物がいます。この兼武さんですが、明治元年の一時期、東京府の官員になります。(正確な時期はいまちょっとわかりません。トホホー)
おそらくは、江戸の産物会所が東京府の所属となり、その担当ということで東京府に入ったのではなかろうかと推測します。備忘のためメモ。

↑当たらずといえども遠からず。こちらをご参照ください。







【追記】
◇木戸さんの手紙に石見さんと兼武さんについてでてきますので、ここにぶらさげておきます。
慶応4年4月29日付で甲東さんに宛てた書簡から前後を略して引用します。(大久保関係文書2より。読点追加。)

且亦此度日誌を以拝見仕候得は、箱館行之御総督判事も弥被仰出候処、彼地は実に懸隔之処柄にも有之、殊に蝦夷開拓之義は一大任に御座候付而は、御委任之廉無之而は随而実事も挙り申間敷歟に奉存候、其上魯国之処はおもに此裁判所之関係不少候に付、清水谷卿は副を被差除真総督に被仰付、井上氏は真之判事に被仰付候方いかにも可然様奉存候、出立前にも井上氏之議論段々承知仕、実に感服仕候廉不少候、其人は真に御用ひ無御座而は事業も暢ひ申間敷と奉存候、肝付建(ママ)武先生も近頃耳病有之候歟に伝承仕候得共、於彼地何歟一事之御委任有之候はヽ、屹度成業可有之と奉存候、実に数百年幕之大醜弊一洗し天下百之廃棄を興し候には、実に人物甚以不足と被相察申候、箱館之処は今一層御委任被為在、井上などは必真判事に被仰付候方御為可然と奉存候、

長州の木戸さんが、薩摩の甲東さんに、薩摩の石見さんと兼武さんを猛烈プッシュ。
うーん、長州には蝦夷地に強い人材なし、ってことですかね。(笑)



◇石見さんが横浜での仕事が一段落して清水谷さんに手紙を書いた6月25日というタイミングについてですが。
甲東さんの日記によれば、甲東さんが、大坂を発って江戸に向かうのが18日。20日に横浜着。20日夜のこととして「今夜於松本旅宿小大夫相会井上中井来」とみえます。横浜に着いた夜にさっそく小松さんに会い、そこへ石見さんと中井がやって来たという次第。翌21日に甲東さんは横浜を発ち江戸へ行くのですが、その前に石見さんは甲東さんに会いに行っています。
石見さんの横浜での仕事は、甲東さんとも相談しながら詰められたということでしょうか。
26日に石見さんは横浜から江戸へ移動し、その日のうちに甲東さんに会っています。



◇石見さんが京都へ行かず江戸から箱館へ帰った事情については、7月23日付で小松さんが甲東さんに宛てた手紙には次のようにみえます。(大久保関係文書3より)

蝦夷ヱチフト島え魯国人追々集入之段相分、井上ニは其為細事談合之上英軍艦え便船昨夜出帆之運に取計申候、細事ハ書面ニ認兼申候間、近々誰そ出府之上御聞取可被下候、極内々之訳も有之めったに御伝言も申上兼申候間、久世公ニ而も御出府之節縷々申上度候様可致候左様御承知可被遣候、

ヱチフト島っていうのは択捉のことでしょうかね。ロシア人の択捉南下の情報が入って石見さんは急遽帰函したと理解していいかと思います。イギリス公使館ルートの情報かしらん。

↑間違い。ロシア人がやってきたのは樺太の函泊。


↓ もうひとつの拙ブログ「かっつんころころ」にある関連記事です。
箱館産物会所
備忘 肝付兼武
よろしければ、ご参照ください。

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